1000年を経た今も

人々に詠み続けられる詩がある


菅原道眞
菅原道眞

東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな

:訳:

春になって東の風が吹いたならば、

その香りを私のもとまで

送っておくれ梅の花よ

主人がいないからといって

咲く春を忘れてくれるなよ

菅原家は、天穂日命(あめのほひのみこと)に起源をもち、曾祖父古人公の時代に、学問をもって朝廷に仕える家柄となりました。

また、道真公の祖父、清公は私塾を設け、同所からは朝廷の要職に数々の官人を輩出し、菅原家は一大学閥となっていきました。

太宰府天満宮より)

菅原道眞が失脚し大宰府に左遷になった時、一族 や側近も同時に失脚しました。 

その時に京を追われた5男の菅原淳茂が菅原氏の荘園であった美濃部郷梅ヶ畑の郷長、平左兵衛門為親の屋敷に逃れ娘婿となり一子、

菅原三郎直茂をもうけたのです。

淳茂は延長元年(923) 5月に赦免とな り帰洛することとなりましたが、子の直茂は美濃部に残り 小字 武島に居宅を構え、姓を地名の美濃部に代えて在地領主となりました。

文化財保護協会第22号より)

剣梅鉢
剣梅鉢

武島氏 近江国より起こり、 菅原氏族にて、もと美濃部を称し、定紋は梅鉢と成る。

美濃部は甲賀五十三家の中でも信頼の厚かった甲賀二十一家であり、後の甲賀流忍術の中心となった家々の一つでした。

菅原淳茂は父・道真公の冥福を祈るため  「 護念山香華院心光寺 」を建立しました。

その分家である「 西照院 」には徳川家康を伊賀越えで護衛した豪族、武島茂幸が今も甲賀の地に眠り、その隣には菅秀才が祀られ続けています。

※「 西照院 」は淳茂(菅原菅秀才)を開基とした寺院です。















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